昭和46年01月13日 13日会
繰り返しその事が、そうだと分からせて頂かなければならないことは、神様の願いが成就するという事は、私共、一人一人の人間氏子の幸せになられるということに直結しておるのでございますから。神様の願いが成就するという事は、結局私自身が助かること。それが神様の願いが、大坪総一郎にかけらておる願いが成就することなんだ。久富繁雄の願いが成就するのではなくて、天地の親神様の願いが成就するという事。
十三日会が「神の願いが成就する日」として、私共は大事にするわけですけれども。神様の願いが成就するという事は、久富繁雄が本当に助かってくれることなのである。一人一人がそうなのである。ですから私自身が本当に助かると言う事が、神様の願いが成就する。だから結論すると、どういう事になるかというと、私共が助かると言う事がです、私共の助かりがそのまま神様の助かりに繋がっておらなければならない。
私共の神様の願いが、私の上に成就するという事は、そのまま、神様の願いが成就しておらなければならない。そこのところなんですね。繰り返し頂いて分からなきゃならないことは。もう私は、今朝から、そうですね、本当にそれはそれは、ほんなこっちゃあるのというごたる難儀な問題を、六、七件お取次ぎさせてもらいました。今、今まで、ここで。それはね、普通では考えられない程しの難儀です。
それがどういう事かと言うと、金には不自由はしないですよ、健康には不自由しない。あの、全部が健康なんです。それでいて、苦しいのですから。ですから、お願いをしておかげを頂いただけでは、これは一つも神様の願いが成就した事になっていない事が分かるです。お願いをして自分の願いが成就したという事は、神様の願いが成就したことにはならんのですよ。
それはただ皆んなの願った事が思う様になっただけであって、それはね神様の願いに繋がらない。それで私は今日一人一人の方にまあ最後的に申しました事はね、もう今日は最近今さっき見えた方なんかは、兄弟達まで連れてからのお届けでした。嫁入っておる娘達やら娘婿達までも来てもらってからの話合いでもうどれだけ言うてもどれだけ、例えば世話をしてもそれで、ほんなら纏っておるというのはないという事。
だから、もういい加減、あんた達が世話したからいけないという事を、いっちょ分からせて頂いて、神様のお縋がりするほかになかよと言うて話たことでしたけれど。それが、そんなら、神様のそういう願いがね、成就してからのおかげでないからなんですよ。ですから、私はその方達に申しました事はね、そういう例えば苦しいことなんですけれども、どうにも仕様がない手の打ちようがない。
今どうして良いやら分からんというのが、今日七件ばっかりお取次ぎさせて頂いた、皆が同じ共通した難儀です。それで今も言う様にほんなら、金に困っておるわけでもない、健康だ、不健康ではないち言うのですよ。悩みとは、色々あるもんですよね。もうそれが、ほんなら、親戚中集まってしたっちゃ、なされない、まとまらない。まとまらないち言うか、苦しい問題。
一つの難儀な問題に、親戚中が巻き込まれてしまっておるという事です。そして手の打ちようもないちいう事なんです。ですからねそのこともですね、神様の願いがそのような形を持って成就していきよるんだという事ですよ。その今難儀な問題だと思うておるけれどもね、そのこともです神様の願いが、そのような形で成就していきよるのだという事です。してみるとねもう信心の分かられてない方に言うんです。
このことはやっぱお礼を申しあげるほかになかばい、と私が言いました。難しいでしょうかね、今日、私が申しますことは。難しいです。難しいけれどもやっぱ、ここが分からなければ、本当の事のおかげにならんのですよ。信心をさせて頂いて、お願いをしておかげを頂くと。痛い痒いが治るということもおかげだけれども、痛い痒いが治ったと、金銭の送り合わせを頂いたことだけがね、それはおかげ、それは神様の願いが成就したという事にはならないと。
神様の願いが成就したという事は、神様のおかげを頂いてご覧下さいと。健康の上にも経済の上にも、人間関係の上にもこのように、日々有り難い勿体ない生活が出来ておりますとお礼が申し上げれる時こそ、神の願いが成就した時なんだ。お金には一つも不自由しませんけれども、ここにはこういう多端な苦しみがございますと。しかもどんなに考えてもです。もう不思議で不思議でたまらん難儀ばかりなんです。
今日私が七件お取次ぎをさせて頂いたその全部が。ですから如何にね、私共がね神様の願いの成就するという、神の願いが成就することの為の信心というものがなされなければならないか。その何件もの私はまあ本当とどうした難儀な事ねて、人に言わんならんごたる難儀ですよ。それがもう不思議で不思議でたまらん難儀なんです考えてみると。まあ一人の場合なんかは兄弟がもう夕べから、夜通しで家族会議をやっておる。
それで本人もね兄さんに向かって、兄さんどうぞよろしくお願いします私もどんこんしよる。その人がね難儀のいわば中心なんですよ。それがほんなら自分の姉婿に頭をさげて、本当に私がそういう事であるから、皆にこういう事になるからどうぞよろしゅうお願いします。ほんならあんたが私が言う事は、こげな風に聞いてくれるのち。はあもう聞くどころじゃないと言うて、四時間たった時にはもうまた元の木阿弥に戻っておったち言うけん。もうどげん考えても不思議で不思議でたまらんち今日今来てから。
もう私も情けのうなりましたち言うてから、言いよる。だから情けのうなったろうがて。だからいかにあんたが、よし引きうけただけではいかん事が分かるじゃるじゃないかち。だからそのことは一時棚に上げておいてからね、一つ、神様にお縋がりをする事にして下さいと言うて、ほんならあの最近の佐田さんところの問題やら、幹三郎の話やらをさせて頂いて、皆が一心の真を捧げて願うという事が、どのように素晴らしいことかという事をね、今日私は話させて頂いた。
だからあなた方もその一心の真心を捧げて、ほんなら自分の家内の里の為に、一つ願って下さいと言うて、お話したことですけれどもね。その中心になるところのお母さんは、信心はしっかり出来ておられるですけん、どげん考えたっちゃそういう難儀な苦しい問題もね、ひっくるめて、この様な形で神様の願いが本当に成就していきよるとじゃけん、お礼を申し上げる他にないよと言うて申しました事です。
だから神様の願いが、お互いの上に表れてくる、成就してくる時には、ほんなら苦しいこともどうして、不思議で不思議でたまらんと、いう様な難儀もあるという事。それは私の信心を見て下されば分かる。どうしてあれだけの信心が出来ござるとに、次々と七墓築かなんような事が出来たり、あれだけ信心が出来よるのに、どうしてあんなに貧乏しなさらんじゃろうかと言ったような問題が、続けて起こったのも同じ事。
そう言う様にして、神の願いが成就しておったという事なんです。だからその事を難儀な事だ、困った事だとせずにですたいこれを御神意として、受けて立たせて頂く一生懸命の信心修行ができる以外にない。今朝から頂くように、御神前で頂いたこと。只でする修行、買ってする修行と頂いた。これ今朝ご神前で、いわゆる御神示で頂いた。何のことかさっぱり分からなかった。
けれども今日のご理解で頂かれよると、そのことがはっきり分かってくる。只でするという事は、お金が要らないでする修行という意味だった。買ってする修行というのはね、自分が買って出るというでしょう。いうならば皆さんがこうやってお参りをしておられる、例えば今寒修行があっておりますから、寒修行にそれこそ眠いけれども、寒いけれどもと言うて、お広前に一杯の修行者達が集まるという事はです。
買ってしておる修行なんです。その只でする修行と買ってする修行。只でする修行というのは私がいつも言う、成り行きを大事にしていけと言う事なんです。これは元は要らんでしょうが。自分の周辺に起きてくる問題を、合掌して受けていこうという修行なんだから。それが只でする修行ち言う訳。それから買ってする修行。今日も今あの日田の山奥のほうから参っておられる方が、今朝から出てきて今こっちに来られた。朝からお水をかかってからお参りをしてきました。
そりゃ寒修行中じゃけん、そのくらいのことぐらいさせてもらわにゃ。もうそりゃお水を頂いてからお参りをして、ここへ座った途端に感激しておられる。ありゃ一生懸命にならにゃ感激は湧いてこんもんです。山の日田のもうそれこそあの山の山の山向こうの、山の奥のほうから、さあ合楽合楽と思いをかけて、ただ参っただけじゃ気がすまん。それこそ水垢離をとってお参りをしてきたと、着いた途端に感動しておられる。
これは自分が買ってした修行なんだ。そういう買ってする修行と、只でする修行とがね、相まっていくような中からでないとです、神様の願いが成就するといったような願いも立てられませんし、またそれをそれと悟る事も出来ません。だから私は今日まだ厳密に言うたら、もっと難儀な問題もうどげん考えたっちゃ不思議でたまらんのぉというのが、今日七件ありました朝から。
もうそれが本当に不思議で不思議でたまらんち、今言う様などげん考えたっちゃ人間の考えじゃ想像されん、考えられないような難儀なんだ。けれどもねその様にしてです、あるところに嫁後が出て行っとる。だからもう私が呼びいかんで良かろうち、はぁほうからけぇときないほうからけぇとくがよか、と私は申しました訳ですけれども、それも不思議な不思議な事で出て行っとる。もう考えられないような事だ。
だから私がそれはほうからかして神様にお願いをしておけとこう。そして、いわば不思議でたまらんと思われるような、その難儀がね、そのような形で、神様の願いが成就しておるんだという事。例えば、私共の上に神の願いが成就して行くという事は、人間が幸せになってくれることなんだけれど。真の幸せになってくれることの為には、ここも通らなければ分からんというところがある。
昨日は嘉朗さんところの家内、昨日一昨日から入院して、もう今お母さんから話を聞かせて頂いたが、ようもそげな事が出来るこつじゃあるのう。ようも助かることも助かったね、けれどもどげんして助かったか分からんち。まだ研究せにゃ分からんち言うごたる助かり方をしておる訳なんです。お腹の赤ちゃんは二日前から死んでおった。おかげでまあ、死んだ子供が安産のおかげを頂いた訳なんです。
そんならどうしてそういうことの難儀がですね、もう妊娠のおかげを頂いた時に、もう中絶でもしておけと神様が言うて下さらんじゃろうかという事なんですよ。けれども神様がそのまま、いわばそこを通らせてくださったということはね、そのようにして神様の願いが成就しておる。これは嘉朗さんでなからにゃ分からん、由起子さんでなからにゃ分からん事がある。そこを通らせて頂かなければ分からん。
お願いに参りました時に私が頂いたのはね、栗が二つに割れておる。けれどもしいらの栗が縮んだ様な栗が入っとる、実の入っておらんとを頂いた。昨日はね熊谷さん所の長男の紀夫さんのうあそこは、昨日は出産のおかげを頂いた。昨日私はお腹がせきよったけんでちょいと休んでおった時に、丁度あの私の寝床に見えてから、今紀夫から電話が掛かってきました。それであの破水してから難産の模様ですからと言うて、お母さんに電話がかかってきた。という事はお願いしときなさいという事でしょう。
だからお母さんすぐに、私の寝床に見えられた。それから丁度家内が次の間に居りますけん、先ず家内に会うておられるから、まあそれでおかげを頂いたとこう思いましたですね。だけどすぐ寝床の中でお願いさせて頂いたら、今私の居間の後ろがソテツばっかりがあるでしょう。ソテツが全部藁で包んでありますよね。その一本だけが包んでないのがあります。今日包まれたかもしれません。それが一本が枯れておったんです。
ところが本当に枯れておるのではな、上だけが枯れておるのであって、下から芽がこういっぱい出ておるというソテツを頂いた。だから私は熊谷さんにね、これは枯れてはおるけれども必ず芽が出るよち。言うておりましたら一時間半くらいしましたら、おかげで大変安産のおかげを頂いたち言うてから、いわば水は枯れておるけれども、出るとは出るち言うお知らせだったですね。
まあこれは余談になりましたけれども、例えばそういうそのようなね、例えばそれでも信心の薄い紀夫さんが難産と聞いた時に、やはり母親にまず電話をかけなければおられなかったことは、やはり神様にお願いをしてくれるに違いない。由起子さんが妊娠のおかげを頂いてそげな難産困った、どうして死んで生まれてくるごたるとならば、始めから中絶させて下さりゃ神様もいいのにと、いいえ決してそうじゃない。
そこまでもたせてそこを通らせて、ここでおかげを頂いて、色々とでなければ分からない神の願いが、そのようにして成就していきよる時だと。だから神の願いが成就すると言う事はそういう事なんですよ。どうぞ十三日会はそこんところをね、ちっと難しい事ある、自分たちの願いが叶うことがおかげの様な思い方ではなくて、いよいよ神の願いが成就するという事は、どのような事かをね。
愈々検討して本当に分からせて頂いて、どんなことに直面させて頂いても、それを神の願いが成就して、御礼の申しあげられるおかげを頂かにゃならん。その先に頂けれるのが健康の上にも経済の上にも、人間関係の上にも全ての上にこの様なおかげを頂いておりますという、御礼の申し上げられる程しのおかげ。是が神の願いが愈々成就した時の言わば、おかげの姿であります。そういうおかげを目指さなければいけない。
どうぞ。